【前編】家業の倒産、FC本部での勤務を経て独立

競争激しい首都圏でグループ20店舗を展開

/エバーグリーン


エバーグリーン

東京都小金井市

伊藤尚文社長(69)


生まれは1951年。場所は山口県の田舎町。父親は公務員で兼業農家。エバーグリーンの伊藤尚文社長が育った当時の環境は、普通であれば起業を志すことの方が難しいものだった。しかし事業家の叔父に影響を受けたことで、その後の伊藤青年を取り巻く環境は大きく変わっていく。家業の倒産、一世を風靡した洋菓子チェーンとの出会い、FC本部スタッフとしての活動。常に様々な要因で導かれてきたキャリアが最終的に辿り着いたのは、フランチャイジーだった。

(ビジネスチャンス10月号「メガフランチャイジー半世紀」より)


伊藤尚文社長(69)

Profile◉いとう・たかふみ

1951年12月7日、山口県生まれ。1974年、慶應義塾 大学商学部を卒業と同時に、京都の洋菓子FCである株式会社タカラブネに入社。1976年に叔父の経営する東京の菓子製造販売の株式会社右門に入社。翌年 には新潟のグループ会社である有限会社右門明治堂 の代表取締役に就任。その後、株式会社右門が倒産 した為、再度タカラブネに入社。以降、店舗開発部や営業部、商品企画部部長を経て、1999年退社。2000年2月に義父が所有するビルにて、「牛角新宿歌舞伎町店」をオープン。同年8月に有限会社エバーグリーンを設立し、以降はFCビジネス展開を進めている。

エバーグリーンはグループで外食6業態・ 11店舗、フィットネス1業態9店舗を運営するフランチャイジーだ。同社の主戦場は国内で最も競 争が激しい東京都を中心に構成されている。ゼロから東京で事業を興すきっかけとなったのは、事業家であった叔父の存在が大きい。


―伊藤社長の実家は兼業農家でお父様も公務員だと聞きました。現代なら話は別ですが、伊藤社長が子どもの頃はなかなか生まれ育った町を出ようとは考えなかったのではないでしょうか。

伊藤 そうですね、当時は地方だと田畑があって、代々その土地を使って農業をしながら農協や市役所などに勤めるのが一般的でした。ですから私も自分の将来については特に考えていませんでしたが、小さい頃から可愛がってくれていた叔父がなかなかのやり手で。叔父は大阪へ出て商売の勉強をし、その後裸一貫で東京へ出てきて和菓子屋を経営していました。日本橋の三越や高島屋にも入っていたようなお店で、有名なブランドだったのです。叔父の家は子どもが女子しかおらず、その点からも男の私を可愛がってくれていたのだと思います。そして次第に叔父がやっている仕事の内容も分かっていき、中学生頃には経営者になることも意識していました。


―叔父の存在がそれまでの考えを一変させたわけですね。

伊藤 叔父からも後継ぎ候補として声を掛けてもらうようになっていたので、大学の入学で上京をするのを機に、叔父の経営する和菓子屋でアルバイトを始め、卒業後もそのままそこに就職しました。入社後も後継者になる雰囲気が社内にあったので、わたしも勉強しなければと思い、叔父の紹介で京都の洋菓子チェーンである「タカラブネ」(※03年に倒産 /現:不二家神戸)へ2年間修業に行ったのです。


―タカラブネといえば国内の洋菓子チェーンとしてはしりのブランドで、最盛期は国内で1000店舗まで拡大されたチェーンですよね。学ぶべき点は多かったですか。

伊藤 初めて工場を見学した時は、まさに目から鱗でした。今では当たり前かもしれませんが、その当時に工場内で焼かれたスポンジケーキがベルトコンベヤーに乗った状態で流れてきて、それを全部機械で切っていくわけです。その頃であれば普通、ケーキは全て手作業でカットされていたものですから、それが全てオートメーション化されていたのには感激しましたね。タカラブネは、生クリームのケーキを皆さんにどんどん広めていくことをビジョンにして、大量に作って大量に広げていくためにフランチャイズとしてチェーン展開をしていたわけです。


―タカラブネで大手チェーンならではのノウハウも学び、意気揚々と家業に戻ります。

伊藤 修行して戻って来たのはいいのですが、帰って来た2年目に叔父の会社が倒産してしまいまして…。まぁ、当時はオイルショックの後ということもあって多少は大変だろうと思っていましたが、まさか倒産するとは。当時はすごく途方にくれましたね。ただ幸い、タカラブネの創業者である野口五郎さんが見かねて叔父が作った工場を全部引き受けてくれると言っていただいて。そのこともあって、私はもう一回タカラブネに入社して、それ以降22年間サラリーマンをすることになったのです。



タカラブネでのサラリーマン生活を経て、伊藤社長が独立したのは2000年。大家業を営む妻の家業を手伝ったことに端を発する。バブル崩壊後でテナントの入居付けに苦労していた時に出会ったのが、その後一大ブームを巻き起す「牛角」だった。



―伊藤社長がフランチャイジーとして初出店したのは、2000年。牛角に加盟したのが最初となります。

伊藤 実は戦後、私の妻の実家が新宿の歌舞伎町で飲食店を経営していました。その後、義父がテナントを賃貸するようになったのですが、バブルで固定資産税がとんでもなく増えてしまって。家賃収入よりも多くなった上に、家賃も滞納されたりしてかなり大変な状況でした。義父は一時ビルを売ろうと思ったようなのですが、自分の娘のことを考えてビルは売らず、建て替えて一からテナントを探したのです。私が牛角と出会ったのはちょうどその頃で、知人に紹介されたのがきっかけでした。


―最初から加盟を前提に話を聞きに行ったのですか。

伊藤 いや、最初は「借りてくれないか」と言いにいったのですが、「自分でやればいいじゃないですか」と言われて(笑)。ちょうどこの時、同じ歌舞伎町で20mほどの近所で加盟する予定だった方が、やらなかったようなのです。だから本部からすると市場調査は終わっており、「もう間違いない」と。だけど自分でやるからには、しっかり調べなければなりません。元々私はタカラブネで立地調査もしていたので、本部の側も分かるので(笑)。



―開業を決意した1999年当時は、牛角もまだ20店舗程しかなかったと思いますが、既存店の視察をしたような形ですか。

伊藤 当時出店しているお店はほとんど見に行きましたし、色んな焼肉店を見に行きました。しかし牛角に敵うところはなかった。ジャズが流れていてお洒落な店内を初めて見た時に、「焼肉屋じゃないじゃん」と。非常に感動しましたし、これはいけると思いました。とはいえ、やはり運営されている方にも実際にあった方がいいと思い、明大前のフランチャイズオーナーの方に会いに行って実情を聞いたのですが、マイナスの話もなかったのです。実際に運営されている方がそこまでいいと仰っているのであれば間違いないだろうということで、やることを決めたのです。



―オープンされてからの客入りはどうでしたか。

伊藤 オープン初月から600万円くらい売り上げて、従業員からも 「オープン前から人が一杯並んでいてすごいですよ!」と言われるほどでした。私もふざけて「歌舞伎町だから24時間やろうか!」みたいなことを言っていたのですが、多分朝までやっていたらもっと売り上げていましたね(笑)。





―1店舗目オープンから間を置かず、翌年には2号店目を出店されていますが、それはこの大当たりがあってのことですね。

伊藤 1店目は自社ビルの地下に出店したのですが、満席どころか人が溢れかえってしまっていて。ですから同じビルで事務所仕様にしていた5階を、牛角の2号店のような形にしてオープンしたのです。同じビルでキッチンを2つ作るので2店分のお金はかかってしまいましたが、本部から加盟金はいらないと言ってもらったので出店しました。ここは一番いい時で月商1500万円以上売り、全国の牛角店舗で1位にもなったこともありました。  

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