【前編】借入金150億円からFCビジネスをスタート

ハードオフとブックオフ中心に上場果たす

/ありがとうサービス


ありがとうサービス

愛媛県今治市

井本雅之社長(65)


ありがとうサービス(愛媛県今治市)は2000年の設立以来、愛媛県を拠点にリユース事業、フードサービス事業、地方創生事業を展開している。同社は主にハードオフコーポレーション、ブックオフコーポレーションのフランチャイジーとしてビジネスを拡大。2012年にはジャスダックに上場を果たした。近年はカンボジア、タイなど海外にも進出しており、現在は海外・直営店舗含め約139店舗を運営する。2021年2月期売上高は84億5300万円、営業利益2億円、経常利益3億3000万円。同社を率いる井本雅之社長は、29歳で祖父が経営していたミシン販売代理店を引き継ぎ、経営者人生をスタートさせた。しかしその後の歩みは崖っぷちの連続だったという。

(ビジネスチャンス10月号「メガフランチャイジーの経営哲学」より)


井本雅之社長(65)

Profile◉いもと・まさゆき

1956年1月6日生まれ。愛媛県今治市出身。1980年早稲田大学教育学部英語英文学科卒業。日本マーケティングセンター(現㈱船井総合研究所)入社。1985年同社退社。井本ブラザー商会代表取締役就任。1989年今治デパート取締役開発部長就任。1991年同専務取締役就任。1994年同代表取締役就任。愛媛いづみ代表取締役就任。四国グランドホテル代表取締役就任。1997年AGY代表取締役就任。2000年ありがとうービス代表取締役就任。

31歳で父親のスーパーを継承

経営不振で倒産寸前に


早稲田大学を卒業後、船井総研を29才で退社し、地元今治市で祖父が創業したミシン販売代理店の井本ブラザー商会の社長に就任。これが井本雅之社長の経営者人生の始まりだった。井本家は代々実業家で父親もまた、当時スーパーマーケット最大手だったダイエーのFCとして、今治デパートを多店舗経営していた。もっともこちらは「100億円以上 の売上があり、息子だからと言って口を挟むことも継ぐ考えもなかった」(井本社長)という。


ところが2年後、父親の病が発覚。井本社長は今治テパートの開発部長も兼務することとなった。「30歳そこそこで社長と開発部長の2足のわらじを履くことになりました」(井本社長)。その後約9年間、入退院を繰り返す父親を社員として支えた。デパート参画当初は、レストランのトマトアンドオニオンにフランチャイズ展開を持ち掛け、自ら1号店を開設。精力的に事業を拡大した。当時はFCが本業になるとは思ってもみなかったという。


父親が死去し、社長に就任した頃から、徐々にダイエー本部の経営状況が悪化。今治デパートでも影響を受けることとなった。「急激に厳しくなりました。売上は170億円あったものの、利益はマイナス2億5000万円、借入金は150億円くらいありました。船井総研の同期に相談したら即答でした。『民事再生法があるよって』。そんなレベルでしたね」(井本社長)。今治デパートは自社土地・自社ビルを多数所有していたが、売却しても逆ザヤになる時代。 50億円の土地が4億円に買い叩かれることもあったという。「店を閉めなくてはならない。契約が残っているところは、 家賃くらい払わなければならない」(井本社長)。井本社長は大きな岐路に立たされた。


藁をもつかむ思いでブックオフ加盟

ハードオフ創業者にも直談判


本格的にフランチャイズビジネスをスタートさせたのはそんな時だった。「イニシャルコストをかけられないから、空いた店舗でビリヤード場を始めようか」と考えた井本社長だが、開業寸前まで準備した時に、偶然新聞でブックオフの出店募集情報を見たという。「ブックオフに決めたのは動物的な勘でした。大変失礼な話だけれども、コレは金かからないぞ、と。仕入れコストもかからないし、定価の1割で買って定価の半値で売るのだから簡単だと考えたのです。動機としては不純でしたね。とにかく生き延びるために、どうすればいいのかだけを考えた。当時は従業員の幸せなど殆ど与えられなくてつらかった。ともかく、きょうの夕方までに3000万円が必要という状況で、とにかく必死だった」(井本社長)。


1995年に1店舗目となるブックオフ中寺店を開店する。




徐々に軌道に乗り始めた頃、新たな転機が訪れた。ブックオフの坂本孝社長(当時)からハードオフの山本善政社長(当時)を紹介してもらったのだ。新しいリサイクルビジネスに興味を持った井本社長は、本社のある新潟へ3期分の決算書を持参して加盟交渉に行った。ハードオフは当時、家電店以外は加盟できない規約があったため、今治デパートには家電売り場があることを山本社長に猛アピール。何とか加盟にこぎつけた。


「山本さんは決算書見ながら、『何とかなるんじゃないの?ボクも大きな負債を抱えながらもここまでやってこれた。いけるかもね』と励まされました」(井本社長)。もっとも新店をオープンさせたものの、まだリサイクル業の社会的地位は低かった。「銀行からはリサイクルは廃品回収と思われているような時代でした。100人以上いた従業員には、『今治デパートではきれいな恰好して紳士服や子供服を売っていたのに古着ですか』と泣かれました。消費者にも買い取りというスタイルは浸透していない。そのため商品を集めるために従業員たちに服を持ってきてもらいました。『まだ使っています』と言われたものでも、ええんや!と。最初はかなり乱暴でしたね(笑)」(井本社長)




社員の一言で大型店出店を決意

ビジネスは上昇気流に


商品をかき集めたところで営業成績は一向に上向かなかった。環境整備が店舗運営の最重要項目でありながら、ないがしろにされていたからだ。「オープンする際に、山本社長は明日はどんなに忙しくても1日3回は店舗前を掃除しようと呼びかけた。出店当日、直営のスタッフは本当に掃除しているのに、うちはしていなかったのです。そこの違いに気づきました」(井本社長)。


山本会長の意見に耳を傾けながら地道な営業を続けたことで、徐々ハードオフの事業も成績が向上し始めたのだった。しかし、相変わらず資金調達には苦労した。これでは多店舗化もままならない。銀行融資がなかなか通らず途方に暮れてきたとき助けてくれたのは、それぞれのFC本部だったという。「ブックオフ坂本社長、ハードオフ山本社長が中心となり、TSUTAYA笠原和彦副社長(当時)が結。加盟店を代表してヌマニウコーポレーション沼生進社長がわざわざこちらに集まり直接銀行へ融資融資を掛け合ってくれたのです。リサイクルビジネスはこれから絶対伸びる、と援護射撃をしてくれました。非常にありがたかった」(井本社長)。


社長に就任して以来、綱渡り経営を続けていた井本社長だったが、ビジネスとしての潮目が変わったのは2000年。会社全体では7店舗目となるハードオフ3店目を、松山の紳士服店300坪弱の跡地に出店したことだった。


「これまで安い家賃の場所しか出店していなかったのですが、部下が『450万円の賃料が250万円にまで下がっているので、どうしても出店したい』という。この進言に賭けたのです。結果、この店が大当たりしてやっとやっていけると思いました」(井本社長)。同じ年には加盟するモスバーガー本部から別会社としての運営を求められたことをきっかけに、エムジーエスを設立。97年に設立したトマトアンドオニオンを運営するエージーワイと合併して、ありがとうサービスとして2005年に社名変更。新会社に今治デパートのハードオフ、ブックオフ事業を譲渡するなど、グループの再編を進め、現在の体制となった。


「これまで人のご縁でやってきた。自分から積極的にフランチャイズしようと考えてきたわけではないです。 儲かるFC本部を探している人がいますが、その考えでは不幸になるぞと答えています」(井本社長)。


13回の閲覧0件のコメント