加盟店からFC本部へと事業を転換 コロナを機に新業態の開発に着手/大衆居酒屋「大金星」「街のお惣菜スタンドデリカの酒井」/酒井敏社長


倶楽部二十九

東京都文京区

酒井 敏社長(62)


都内を中心に、自社業態の大衆居酒屋「大金星」を10店舗経営する倶楽部二十九(東京都文京区)。同社の酒井敏社長の飲食キャリアは、フランチャイジーとして29歳の時に加盟したモスバーガーに始まる。フランチャイジーとして得た経験を自社業態の開発へと生かしていった酒井社長。その軌跡を聞いた。。(※2021年2月号「フランチャイジー半世紀」より)


酒井 敏社長(62)

PROFILE さかい・さとし

1988年、29歳でモスバーガーのフランチャイズオーナーとして独立。10年間店長として働き、1998年、39歳の時に牛角と出会い、フランチャイズ1号店として第2の人生をスタートさせる。その後2008年に自社ブランド開発に乗り出すものの、失敗。そんな中、フードプロデューサーの第一人者、中村悌二氏と出会い大金星を創業。2010年には年商10億円を達成する。2021年3月には、新業態「街のお惣菜スタンドデリカの酒井」の展開をスタートさせる。


酒井社長はモスバーガーの加盟店からスタートし、今では焼肉の「炭火焼肉牛角」や自社業態の居酒屋など、幅広い領域で事業を展開しています。珍しいキャリアだと思いますが、どのような経緯で起業をしたのですか。


酒井 私は実家が家業をしていたわけでもなく、むしろ父親は銀行員だったのである意味起業家とは真逆の環境で育ちました。しかし漠然とですが、「男だったら小さくてもいいから自分で自分の傘を持ちたい」という考えがあった。具体的に考えるようになったのは大学生の頃からですが、独立について知ればしるほど、資金の必要性を感じていました。そのため、まずは資金を貯めようと思い、スーパーの忠実屋(現:イオン)に入社しました。


―スーパーを選んだ理由は何だったのですか。


酒井 スーパーは色んなものを取り扱いますから、幅広く知識が得られます。実際、働く中で飲食業に決めたのは、アパレルのように在庫を持たない資金面でのメリット、また地道にやっていれば潰れることはないということが分かったからです。当時は週5日の勤務をこなしながら、休日になると東京中を歩き回り、流行っている店とそうでない店の違いを自分なりに考えたり、同じチェーンでも売れているところとそうでないところを分析していました。最終的には3〜4年を費やすことになりましたが、その時勉強した立地の選定手法については今でも活きています。


―フランチャイジーとして起業したのは、どのような理由からですか。


酒井 今申し上げたように、サラリーマン時代に様々な店舗を見て回っていたのですが、ある日、神田を歩いていた時に喫茶店がありました。このお店は夫婦で経営しているようで、簡単な軽食やコーヒーなどを出しており、結構流行っていたのです。「私もこんなお店をやりたい」と思っていたのですが、半年後にその近くにドトールができた結果、閑古鳥になってしまった。180円であれだけのコーヒーを出すチェーンがある。やっぱりこういうFCには勝てないと実感しました。


―FCのブランド選定はどのように行っていったのですか。


酒井 はじめは自分が一番好きなものをやろうということで、ミスタードーナツの本社へ行きました。しかし、先方から提示された準備金は8000万円。想像していない金額だったので、断念せざるを得ませんでした。その次に加盟を検討したのはドトールでした。当時1号店ができたばかりで、雑誌にも大々的に取り上げられていたこともあり、本社へ訪問したのですが、そこで提示された金額は1億円。当時はバブルの時代で開業資金も高額だとは思っていましたが、その金額は想像以上でした。


―今では考えられない金額ですね。


酒井 もう甘かったというか、夢がすべて遮断された瞬間でした。ただそんな中、ある日友人から、田端にあるモスバーガーの店舗の話を聞きました。私自身、モスバーガーの存在は知らなかったのですが、その店舗に行くとものすごく混んでいた。後日本社へ訪問し、話を聞くと5000万円で開業できるということだったので、加盟を決めたのです。


―とはいえ、5000万円も高額です。開業資金のあてはあったのですか。


酒井 当時はバブルの頃だったので銀行はお金を貸してくれると思っていました。しかしその見込みは甘かった。銀行に行って話をするのですが、担保がないと知った途端、銀行員の

顔色が変わるのです。当時は独立のことしか考えていなかったので、とにかく悔しくて、度々公園に行っては一人砂を握りしめて泣いていましたよ。


―その状況をどのように打破したのですか。


酒井 ある日ふと思ったのです。待てよ、自分が行った銀行はまだ7つしかない。だけど東京の銀行の数は星の数ほどある。全部行ってダメだったら考えるけど、まずは東京中の銀行を全部回ってみようと。そしてそれ以降、朝の8時50分にスーツで銀行へ行き、9時ちょうどに入店し、その場でこう叫ぶのです。「モスバーガーのオーナーになりたいんですけど、5000万円を貸していただきたい。これまで色んな銀行に行ったけど、担保がないことを理由に全て断られた。この日本は若者の情熱を担保に貸してくれる銀行はないんですか」と。そうするとみんなアリンコを散らすようにバーっと周りから引いていく(笑)。

 ただ、融資していただいた銀行は違いました。奥から一人の男性が出てきて、名前を名乗ると相手は支店長でした。別の場所に通されて状況を説明したところ、当初はその支店長からも「今の君に貸す銀行はない」と言われました。ただ、私の熱意を買っていただき、その後1年間かけて支店長の言われたとおりに課題を解決しながら融資を受けられるようにしていったのです。


―晴れて29歳でモスバーガーのオーナーになりましたが、加盟後もなかなか大変だったみたいですね。


酒井 台東区の合羽橋に出店しましたが、銀行への毎月の返済は53万円。当初は1年ぐらい頑張れば2号店・3号店と増店し、ベンツに乗れると思うわけですが、その考えが本当に甘かった。一日17時間働いて休みも年に1日くらい、それでも53万円の支払いをした後の手残り15万円を自分の給与にしていました。自分で選んだ道ですから仕方ないですが、夢や希望、情熱や可能性といったすべての期待を込めて参入したら地獄になってしまった(笑)。


―なぜそんな大変な経営になってしまったのですか。


酒井 結局、最初の頃に加盟した人たちだけがいい場所を取れて儲かったんです。私は754号店として出店しましたが、後から来た人は皆同じ状態。ですからFCは絶対に最初にいい立地で加盟するべきなのです。それができないと人がやらない場所に出店せざるを得なくなり、ほかのFCともバッティングしてしまう。そうすると本部が言っているようには売れないのです。


―結果的に8年の返済期間を終えた後、モスバーガーは辞めてしまいました。


酒井 銀行の返済が終わった結果、53万円が浮くので自身の給料も大幅に上がる予定でした。しかし、ちょうどその頃バブルが崩壊して、店舗売上もどんどん下がってきたのです。一時は550万円あった月商が400万円まで下がってしまい、今度は返済はないけど自分の給与はまた15万円しか取れない。そういう厳しい状況もありましたが、元々返済が終わっ

た時点でモスバーガーは卒業しようとも思っていました。これからは新しい事業で次の人生を歩まなかったらいけないと思っていましたから。


牛角FC1号店をオープン苦労の10年から飛躍の10年へ


―その後、加盟したのが「炭火焼肉牛角」ですね。


酒井 ある日、店舗の常連さんが牛角創業者の西山知義さんを連れてきたのです。当時は牛角についても西山さんについても全く知らなかったわけですが、お話した印象が良かった。その上で、西山さんから「これから牛角というFCをやるんだけど、酒井さん、FCを最初にやらなきゃいけないとわかったのなら、ぜひうちの1号店やってくれないか」と。


―加盟の決め手は何だったのですか。


酒井 FCは最初にやらなければいけないと思っていましたから、牛角はまさに天からの贈り物だと思いました。そしてそれ以上に西山社長の姿勢に感銘を受けました。私が加盟を伝えたところ涙を流されたのです。「絶対後悔させません」という言葉に、私も「死に物狂いで頑張ります」とお伝えし、スタートしたのです。


―当時、牛角はまだ直営店が5店舗のみのブランド。酒井社長がオープンした浦安店は8500万円の投資費用をすべて銀行借り入れして臨んだようですが、オープン後の反響はいかがでしたか。


酒井 月商が1800万円で、毎月の返済をした後も300万円が残る状態。まさに大当たりしました。牛角が儲かるということで急速に広まる一年半前ぐらいのことでしたが、それからは牛角のモデル店舗として色んな人たちが視察に来られましたね。


―そして、牛角を開始してから10年後、今度は自社業態の運営を始めます。最初はホットドッグの業態をやられたということですが、上手くいったのでしょうか。


酒井 「ホットオニーズカフェ」という店舗を出店しましたが、半年で潰れてしまいました。このブランドは私の方で2年間研究開発して、ライスバーガーを焼く機械まで作ったのですが、一回来店したお客さんが二度と来ない(笑)。毎月100万円の赤字が生じて、結局4500万円の損失を出しました。それでも諦めきれず、もう一回やろうと。


―次はどのような業態を出店したのですか。


酒井 「どんたく」というもつ焼き屋を始めましたが、売上も200万円程度で赤字が出ていたので一年程で閉店しました。やっぱり自社ブランドは大変だと自信を無くしてしまいましたね。


―やはり店舗の運営には絶大な商品力がないといけないということですね。


酒井 そんな時、私が会長を務める牛角のオーナー会でたまたま講師に来ていただいたのが飲食プロデューサーとして有名な中村悌二さんでした。そこで中村さんにこれまでのことを話した上で「ぜひ見ていただきたい」とお話ししたところ、了承をいただけたのです。


―そうしてできたのが「大金星」ですか。


酒井 全然僕らが考えていることとは違いました。私たちはどうしてもオペレーションから入ってしまいがちですが、中村さんは売れるものを作るところから入って、オペレーションは後から来る。たとえばポテトサラダを提供しようとした場合、普通はベースを買ってきてしまうのですが、それではダメだと。じゃがいもを蒸かして潰してマヨネーズを和えてというように全部手作りで行い、それを各店舗でやると。非常に大変でしたが、こうでもしないと売れないということが身に染みました。


―確かに商品力は上がったと思いますが、一方で効率性が下がってしまって大変だったのでは。


酒井 その頃は店舗の営業が終わって仕込みをする生活を繰り返していましたから、その内社員が寝れなくなってしまう。そう思って、小さいながらもセントラルキッチンを作りました。そしてそこから配送するのを徐々に進めていった結果、時間にも余裕ができるようになり、その余力を使って大きめのセントラルキッチンを浦安の方に作りました。


―大金星は都内を中心に直営・FCで10店舗展開していますが、コロナ前は売上も相当あったと聞きます。


酒井 コロナ前であれば、一番売る店舗で月商1400万円で300万円の利益を出していた店舗もあります。やっぱり全部手作りですから、チェーン店にはできないし負けない。今はコロナで売上も下がってしまいましたが、それがきっかけで新たな業態の開発も進めることを決めました。


―新業態とは。


酒井 浦安にあるセントラルキッチンが手狭になったので、埼玉の新座の方で新しい場所を確保しました。ここでは大金星で提供する商品を加工するほか、新たに行う弁当の業態「街のお惣菜スタンドデリカの酒井」の商品も仕込みます。大金星で提供しているハムカツやキャベツメンチ、ジャンボ餃子といった手作り商品を少し小さくして、弁当として提供するものです。


―既存の店舗の店頭で販売する形ですか。


酒井 単独店舗の店頭でガラスケースに個々の商品を並べるほか、手作りのシュウマイに関しては湯気を立たせて美味しさを演出したりしようと思っています。お客さんはコロッケだけ買っていってもいいですし、弁当にして買ってもいい。想定月商は400万〜500万円ほどですが、テイクアウトが8割、イートインが2割ぐらいをイメージしています。


―今はデリバリーやテイクアウトも活況なので、ウケそうですね。


酒井 2021年3月にオープンする予定ですが、このような状況下でも前向きに事業を展開していければと思っています。


―酒井社長は加盟店、本部の両方の立場を経験されています。それを踏まえてFCビジネスの課題は何だと思いますか。


酒井 たとえば加盟店側は出店のバッティングについては非常にデリケートですが、本部は意外に気にしていない。また食材原価に関しては、卸価格に本部利益を上乗せしている企業もあります。加盟店は別でロイヤリティを支払っているのにも関わらず、です。ですから当社の「大金星」の場合は、FCに対して立地もバッティングしないようにしますし、原価も利益を上乗せしていない。このように考えられるようになったのも、加盟店と本部の両方を経験できたからこそのものだと思っています。

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