ソニーで学んだイノベーションで人材と起業家を長野から世界へ輩出/対談/中澤 信雄×長野県立大学 安藤 国威理事長【前編】

最終更新: 7月24日

長野県立大学(長野県長野市)

安藤 国威理事長


東京コーパス総合研究所代表

中澤 信雄

日本が世界に誇るモノづくり企業ソニーに入社し、ソニー・プルデンシャル生命(現:ソニー生命)の立ち上げ、そしてパソコン「VAIO」の開発を主導し、2000年にソニー7代目の社長に就任した安藤国威氏。現在は公立大学法人長野県立大学の理事長として、産学官で構成する「信州ITバレー構想」の発起人の一人として奔走している。現代の起業家にとって必要な要素とは何なのか。安藤氏の経験をもとに紐解く。(※2020年8月号「上場請負人 中澤信雄の成功道入門」より)

安藤 国威理事長(78・左)と中澤信雄

世にないものを作るのが当たり前 イノベーション起こす環境が身近に

中澤 1970~1980年代のソニーはまさに「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代。私も野村證券時代は海外生活が長かったのですが、世界中でその社名を聞きました。

安藤 今でこそアメリカのIT企業が世界を席巻していますが、当時のソニーはむしろ彼らから憧れられる会社でした。マイクロソフトのビル・ゲイツも、当時ラスベガスで開催されていたComdexでVAIOの展示されているソニーのブースに毎年来ては、「ITの未来はここにある」と言っていました。

またスティーブ・ジョブズに関しては、元々ソニー製品の大ファンで、盛田昭夫さん(ソニー共同創業者)が亡くなった時も、「He is my hero!」と言っていたぐらいですから。当時はソニーがイノベーションの名を欲しいままにしていました。

中澤 安藤さんがソニーに入社したのは、どのような経緯だったのですか。

安藤 元々私は、外交官になるために東京大学に入学しました。しかし実際に入学してみたら「外交官ってどうなのかな?」と思うようになっていました。一方、メーカーに興味はあったのですが、友達に言ったら「製鉄会社か?」と言われまして(笑)。東大の人たちからすると、メーカーといえばこのような重厚長大な企業だと思っているのです。私はそうではなく、これから世界に行くんだったら、今は小さくても将来は大きくなるものを作りたかった。それをできるのがソニーだと思ったのです。

中澤 当時のソニーは、何の事業に注力していたのですか。

安藤 私が入社した頃は、ちょうどトリニトロンカラーテレビが出る直前でした。当時、世界の電機メーカーは米国のRCA社の開発したシャドーマスク方式のカラーテレビを販売していたのですが、井深大さん(ソニー共同創業者)はどうしてもそれに納得できなかったのです。なぜかというと構造上画面が暗くて、当時のアメリカでは、わざわざ部屋を暗くしてテレビを見ていたぐらいだったのです。

中澤 明るい環境でテレビを見ることへのこだわりがあったわけですね。

安藤 井深さんは幼い頃にお父さんを亡くされて、お母さんが再婚されたため、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に暮らしていました。その時に、彼は一家団欒で両親と一緒にご飯を食べるということに憧れていた。だから自分で作るのだったら、明るい電灯の下でも見れるテレビでなければならないんだと。

中澤 開発は順調にいったのですか。


安藤 最初はクロマトロン方式での開発を行ったのですが、これは大失敗しました。それでも井深さんがどうしてもやりたいということで、トリニトロン方式での開発を始めたのです。トリニトロンというのはシャドウマスクのドットの穴に光のビームを通す方式ではなく、すだれ状の間からビームを通すため、シャドーマスクよりも遥かにビームを通す量が多く、結果として画面が明るくなるのです。

中澤 まさにイノベーションを起こしたというわけですね。

安藤 たった1社の状態になったことが結果的に幸いして、「ソニーは特別な会社だ」という声が上がりました。ハイプライスだけれども、ユニークでハイクオリティなものを作っている会社だと認識してもらったのです。

中澤 井深さんの有名な言葉として、「真面目なる技術者の技術を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」という言葉があります。社員の能力を引き上げるためにクリエイティブなものを作れる場を提供していたわけですね。

30代で抜擢された新規事業 逆張りが成功のカギ

中澤 安藤さんの功績として有名なものに、ソニー生命の立ち上げがありますよね。その時のお話を伺いたいのですが。

安藤 先ほどもお話しした通り、とにかく挑戦することを後押ししてくれる会社でしたから、33歳の時には念願叶ってアメリカに赴任することもできました。しかし2年が過ぎた頃にニューヨークに出張されて来た盛田さんに呼ばれて、「お前、すぐに日本に帰れ」と。なぜかと理由を尋ねると、保険のトップをやるんだという話でした。

中澤 ソニーでは、以前より生命保険会社の構想があったのですか。

安藤 実は私が携わる3年半前から、ソニーとプルデンシャルとでプロジェクトを行っていました。ただ上手く進まず、ソニーも諦めかけていたのです。その時にプルデンシャル側から、「アメリカにいる安藤というやつをトップにしたら、自分たちはやってもいい」という条件が出たということでした。あいつは言いたいこと言ってくるけど、センスが良くて分かっていると(笑)。


中澤 安藤さんはすんなりOKしたのですか。

安藤 最初は断りましたよ。エレクトロニクスの会社が全く知らない保険会社をやるわけですから。でもその時に盛田さんに言われたのが、「You are nothing to lose!」という言葉でした。つまり、あなたには失うべきものなど何もないと。その上で、「エレクトロニクスというのは自分と井深さんで作って伸ばした。大賀典雄さん(第5代社長)だって、ソニーミュージックを作っただろ。君は自分たちの土俵で追いつきっこないんだから、じゃあ君は何をやるんだ? 金融事業をやればお前が第一人者だぞ」と。

中澤 唐突なお話だったかもしれませんが、盛田さんの言葉も一理ありますね。立ち上げ時は、どこから着手していったのですか。

安藤 私なりに理想の保険会社は何だろうと考えました。そうしている内に、保険業界を取り巻く独自の環境に気付いたのです。当時の生命保険会社は、一位の日本生命から大和生命まで20社あったのですが、護送船団行政の影響で、全社同じやり方をしていました。そんなことはソニーの常識ではあり得ない。しかも上位の企業は、放っておいても儲かってしまう。要するに、非常にプロテクトされた業界の中にあったのです。

中澤 その状況をどう打破していったのですか。


安藤 当時の生命保険業界は主婦を中心としたセールスレディーが35万人くらいいて、義理と人情で商品を売っていると言われていました。本来の生命保険の価値を正しく伝えるためにはこれではダメだと思った私は、向こうが量で来るなら、こちらは質でいくと。

具体的には、男性でセールス経験も豊富なプロのフィナンシャルプランナーを作っていくべきだと考えました。そして給与体系から資格制度に至るまで、業界の常識とすべて異なることをやっていったのです。私は新しい生命保険のプロフェッショナルを「ライフプランナー」と命名したのです。

中澤 まさに人のやらないことをやって成功するということですね。

安藤 時間はかかりますが、日本生命の逆を張ればいいわけですから(笑)。今は年ごとの新規契約の獲得を示す新契約ベースでは、日本生命の次につけるまでになりました。

(後編につづく)



安藤 国威(あんどう・くにたけ)

長野県立大学理事長

1942年生まれ。東京大学経済学部卒業。69年ソニー株式会社入社、79年ソニー・プルデンシャル生命保険株式会社(現ソニー生命保険株式会社)を設立し代表取締役就任、生保業界に革新的なビジネスモデルを確立する。90年より米国ソニープレジデントCOO、96年ソニー本社ITカンパニープレジデント就任以来、パーソナルコンピュータ”VAIO”、携帯電話、デジタルカメラの開発・事業化を主導。2000年6月ソニー株式会社 代表取締役社長に就任。2005年ソニーフィナンシャルホールディングス株式会社代表取締役会長。その後ソニー生命保険株式会社会長、名誉会長を歴任。2018年4月長野県立大学理事長就任。



中澤 信雄(なかざわ・のぶお)

東京コーパス総合研究所代表

1944年8月7日、熊本市出身。早稲田大学卒業後、野村証券に入社し海外投資銀行部門を20年渡り歩く。常務取締役、専務取締役を経て、1997年国際証券社長に就任。三菱証券社長、国際投信投資顧問会長を経て、2003年、事業創造大学院大学初代学長に就任。2006年から現職につき、国内外の幅広い企業で顧問を務める。


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